吉塚か、はたまた柳川か。 今日はうなぎ弁当です。

   うな重風の弁当
   うな重風の弁当

7月ともなると、うなぎが食べたくなります。

 

今年のうなぎは高いですね。

お店で売られているうなぎは、昨年に比べると、5割高、いやもっと高いという人もいます。

 

 

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博多の「吉塚うなぎ」と柳川の「うなぎのセイロ蒸し」

福岡県で「うなぎ」と言えば、吉塚うなぎか柳川のセイロ蒸しが有名です。

 

吉塚うなぎは、関西風の、腹開き・串打、そして蒲焼き。

柳川では、背開き、そして、セイロ蒸しです。

双方、これが基本です。

 

柳川人は、蒲焼きは、食べないと言います。

藩主への献上品でもあったセイロ蒸しは、手間ひまかけた高級な料理。

背開きにすることについて、俗説では、かつて武士階級が「腹を切る」ことを想起し嫌ったためと。 

どちらも、美味しいですね。

 

少し贅沢に、

うなぎを肴に冷えた日本酒で一杯、もう堪えられません。

 

「吉塚」の地名の由来と柳川

ー 16世紀後半、豊後大友氏と薩摩島津氏の領土を巡る熾烈な争いの中 ー

 

大友軍の立花宗茂に攻められ、高鳥居城(福岡県糟屋郡須恵町上須恵)で討ち死にした筑後星野村の豪族、星野中務大輔吉実(ほしのよしざね)、星野民部少輔吉兼(よしかね)兄弟。

 

その首が葬られたのが、現在の福岡市博多区吉塚の地で、その首塚は「吉実塚」と呼ばれ、この「吉実塚」が、吉塚の地名の由来となったと言われています。

 

そして、立花宗茂は、豊臣秀吉から九州征伐への勲功を認められ、筑後柳河藩の初代藩主となるのです。

 

やがて吉塚の地では、うなぎの蒲焼きを売る露店や商店が登場し、庶民の食べ物として人気を博していきます。そこに「吉塚うなぎ」のルーツがあります。

 

一方、立花宗茂の柳河藩では、セイロ蒸しが考案されます。朱塗りのセイロに錦糸玉子など、豪華に洗練されながら、三百有余年の星霜を重ねていきます。

 

星野吉実と吉塚うなぎ、そして、立花宗茂と柳川のセイロ蒸し。

何とはなしに、 因縁めいたものを感じます。

 

参考までに、

 

【 吉塚地蔵尊のいわれ 】
                             戦国史家 吉永正春 文
 天正十四年(1586)七月、薩摩の雄島津氏は、九州制覇を目ざして筑前に進攻してきた。この時、筑後の武将星野吉実(ほしのよしざね)、同吉兼(よしかね)兄弟は部下三百余名を引きつれて出陣し、島津軍の命で粕屋郡の高鳥居城を守り、豊臣秀吉についた立花城と相対した。
 島津軍は岩屋、宝満の両城を陥し、八月に入って立花城を囲んだ。だが、関白秀吉の命を受けた毛利軍が豊前に到着したので、八月二十四日、立花城の囲みをといて、いっせいに本国へ撤退していった。
 だが、星野兄弟は島津氏への義を守って、高鳥居城を守備したが、翌二十五日、立花、毛利の連合軍の攻撃を受けて激戦となり、星野勢の奮戦も及ばず全員戦死して落城した。
 吉実、吉兼兄弟の首は、当時の那珂郡堅粕村に葬られ、“吉実塚”といっていたが、のちに“吉塚”となり、現在の地名になったといわれる。
江戸時代の元禄頃、妙蔵尼という尼僧がここに地蔵堂を建て星野兄弟の霊を慰めていたという。明治二十六年には追悼記念碑が建てられた。
毎年七月下旬に吉塚地蔵尊祭りが行われている。

奉納昭和六十年七月吉日
  吉塚地蔵尊四百年祭