上の図は、筑前一之宮 住吉神社が所蔵する鎌倉時代に描かれた博多古図だ。
少し解りづらいが、中央の海は「冷泉津」、その右の海は「草香江」。
今も地名として残っている。
冷泉津の海に張り出した地には、「日本第一住吉大明神」の記載、その上部には「簑島」、
現在の美野島だ。
住吉神社は、当時、松に囲まれた中にあり、その鳥居は海に面している。
今も一の鳥居と道路を挟んで西側に、かつての海の名残と言われる天竜池があり、天津神社に伊弉諾大神が祀られている。
昔、この図を元に、贈答用のテーブルセンターなどが作られ、会社の応接室などでよく目にした。
かなりの驚きをもって、それを見た記憶が残っている。
” 現在の中央区にまで、海が入り込んでいたのか … ”
住吉神社発行の「 筑前一之宮 住吉神社史 」に、次のように記されている。
古代の博多湾(冷泉津ともいう)は、住吉神社辺まで入り込んでいる。住吉は海岸に面した良港として、交易・物資輸送の基地であったことが推察される。背後には、那津屯倉があり、板付・須玖等は、早くから開けた奴国・儺(ダ・ナ)県の聚落であった。
この海辺の住人のうちには、有史以前から中国や朝鮮との交易によって生活を営んでいた、いわゆる「古代渡海者」があったことが推測される。
『魏志倭人伝』の記載によれば、対馬や壱岐の住民が、食料の米を得るために朝鮮や日本に渡航して交易を行ったことがわかる。(中略)
こうのような航海者たち、または漁猟者が、航海の安全を祈願し、奉賽(ほうさい)したのが住吉神であった。博多湾の住吉沿岸一帯には松樹が繁茂していた。住吉神の神体は松の木であった。
大きな高く聳える松の大木は、航海者たちの目印ともなったことであろう。出港には航海の安全を祈り、帰港したら奉賽して感謝した。神木の松のまわりにひもろぎをつくり、住吉神を祭ったのである。
住吉の神体は松の木 ?? …
神社は、古代史を考えるうえで、極めて大きなファクターだ。
2012年、大分県の糸が浜キャンプ場を訪れた際には、
ー いにしえの昔、海を渡り、この浜にも立ったであろう「秦氏」一族を思います。
糸ヶ浜の公園内には、住吉元宮神社があります。また、近くには、住吉浜も。
ほど近い杵築市には、奈多の地名もあるのです。
「糸ヶ浜」の “ いと ” は、「伊都国」の ” いと ” を想起させ、「奴国」、そして、安曇氏の拠点であった福岡市志賀島、その近くの和白には奈多海岸が…。
そこかしこに、渡来人、海人族の足跡を想わざるを得ないことばかり。 ー
こんなことを書いている。
大分県速見郡日出町の住吉元宮神社もまた、浜辺の砂地、松の木に囲まれた中に佇んでいた。
その風情は、博多古図の住吉大明神と重なるものだった。
住吉信仰への興味は尽きない。
<「西海道古代史の迷路」はこちら>
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