どんな片隅からでも吠えろ / ふと想起される言葉 vol. 57

 

 

かつて『 耳順 』のことを書いたことがある。

 

 

『論語』の「六十にして耳順(みみしたが)

う」から。60歳になると思慮分別ができて、他人の言うことを素直に聞くことができるようになるという意。

          (漢字ペディア) 

 

品性の修養が進み、聞くことが直ちに理解でき、なんらさしさわりも起こらない境地の意から、60歳の異称。

      (精選版 日本国語大辞典)

 

 

人の言うことが、耳に逆らわず聴けるようになる。

 

60過ぎともなれば、そうありたいと思っていた。

 

 

 

「 耳順  -  ふと想起される言葉 vol. 4  -」はこちら>

 

 

 

しかし、これが難しい。

身の回りのことで鬱憤が溜まることはないが、近頃の政府や政治家のやりようには憤然とする。

 

「耳順」なんてのは無理だ。

 

 

ふと、若い頃に読んだ寺山修司氏の本の言葉を思い出す。

 

ー どんな片隅からでも吠えろ  ー

 

どんな片隅で生まれても、スポイルされそうになったら噛みつく勇気を持つことが必要だと思うがどんなものだろうか?

 

そういえば「理屈では、その通りだが」とキミたちは思うだろう。「しかし、現状ではそう簡単にはいかない」ところがある。

 

キミたちは、支配や階級、そして能力や財産のなかにおいて「雑種」であることを恥じて、 いつのまにかコンプレックスという病気に罹る。すぎたるコンプレックスというのはいわば「自殺の思想」である。生きながら自殺してしまっている青年のむごたらしさを見るのはなんという味気ないことだろう。(中略)犬のごとく吠えろ。キミもまた雑種ならば。

 

                      ─ 『ぼくは話しかける』 寺山 修司 ー

 

 

無論、「キレる高齢者」や「凶暴老人」はいけない。

が、あれは病気だ。そうならないように用心しなければならない。

しかし、何事も達観したような「老いた羊」はもっと嫌だ。

 

 

憂わず、あきらめず、落ち着いて正しく吠えよう。

 

 

 

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