日本民俗学の創始者で、近代日本を代表する思想家でもあった柳田國男は、日本人の伝統的な生活リズムとして、「ハレとケ」というふたつの概念を定義した。
ハレには「晴」、ケには「褻」の字が当てられる。
ハレは祭礼、年中行事、通過儀礼、冠婚葬祭などの非日常な儀礼や祭、ケは日常生活、ふだんの労働を指す。
非日常であるハレの日は、単調な生活に変化とケジメをつける日でもあり、人々は、この日の衣食住を大きく変える。
例えば特別な日だけの『晴れ着』を着たり、家や部屋などには普段とは違う特別な装飾を施し、酒・米・餅・肉といった普段の生活では口にしないものを食す。
一方、ケは日常の生活そのものを指し、朝起きて食事をして昼間は働いて夜になったら眠るという日常の状態のことであり、ケは、普段着を意味する「褻着」(けぎ)や、農家の日常食を意味する「褻稲」(けしね)などの民俗語彙から抽出された概念と言われている。
ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別した。
1970年代に入ると、文化人類学者の波平恵美子は、「ハレとケ」に加えて、古くから語られてきた「穢れ」(けがれ)という不浄を意味する語を「ケガレ」 とカタカナで表記して民俗学の分析概念として用いる考え方を提示した。
ハレは淸浄性・神聖性、ケは 日常性・世俗性、そしてケガレは不浄性をそれぞれ示す概念であり、日本の民間信仰のバリエーション は、このハレ・ケ・ケガレの相互の関係の差異によって生じるものであるとした。
これに対し、柳田國男門下の民俗学者・桜井徳太郎は、ハレとケの媒介項としてケガレを設定し、ケガレは稲の霊力であるケが枯れた状態、つまり「ケ枯れ=ケガレ」であり、そのケガレを回復するのがハレの神祭りであると唱えた。
日常生活を営むためのケのエネルギーが枯渇するのが「ケガレ(褻・枯れ)」で、
「 ハレ → ケ → ケガレ → ハレ」という循環論である。
我が国は、第二次大戦からの復興と経済成長の中で「ハレとケ、ケガレ」の区別をなくしてしまった。
毎日が「ハレ」のような日々を過ごしてきた人々。
夜な夜な酒肉をくらい、自由の名のもとに享楽の時を過ごす。
僅かばかり「ケ」の生活を求められただけで、猫も杓子も「ストレス」だと。
続くコロナ禍の生活。今は「ケガレ」の時だ。
この時を耐えてこそ、「ハレ」の日が訪れる。
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