百道浜と早良王国 / 西海道古代史の迷路

 

 

 

朝、バスを降りると、北に福岡タワーが聳え立つ。

 

ひるがえると、西新の先、真南に油山を望む。

 

その先には、背振山系の山々が連なるのである。

 

勤め先は、百道浜1丁目。

 

かつては、百道海岸、百道海水浴場と呼ばれた浅海の地である。

 

「百道海岸」の埋立ては、1982(昭和57)年に開始、1986(昭和61)年に完了。

 

それから約40年、その浅海の地に建つビルの一室で仕事をしている。

 

 

時折、そうした歴史を思い出すと少し妙な気分になる。

 

 

 

 

西新5丁目の南側の地名は『祖原(そはら)』だ。

初めてその名を聞いた時には、何かしら奇矯に感じた。

 

「 脊振 (せふり)」を聞いたときと同じような感じだった。

 

 

      ※       ※       ※

 

 

 

朝鮮半島、大陸への玄関口である博多湾に面した地域は早くから稲作文化が我が国に入ってきた先進地域であった。

 

その博多湾の西側の室見川に沿って、早良平野がある。

 

広い平野ではなく、一般には福岡平野の一部と考えられているが、ここで古代早良国の王墓とも考えられる吉武高木遺跡が発見されている。

 

現在は福岡市の早良区・西区になっているが、古代においては油山で隔てられた隣の奴国(那珂川沿いの福岡平野)と境を接し、西は飯盛山、叶岳、高祖山などの日向山系を介して伊都国(糸島平野)と、南は背振山系を介して吉野ヶ里遺跡のある佐賀平野と接している。 

 

『 和名類聚抄 』によれば、毘伊( ≪ ひい ≫  現在の城南区樋井川付近)、能解( ≪のけ ≫ 現在の福岡市早良区野芥付近)、額田( ≪ ぬかだ ≫ 現在の西区野方付近)、早良( ≪ さわら ≫ 現在の城南区鳥飼付近)、平群( ≪ へぐり ≫ 現在の早良区羽根戸から金武付近)、田部( ≪ たべ ≫ 現在の早良区小田部付近)、曽我の7郷があったと記されている。  

 

 

 

『 早良 』の地名の起源には、諸説ある。

 

考古学者、伊都歴史資料館(伊都国歴史博物館の前身)の名誉館長であった故原田大六氏は、

 

ー 飯盛遺跡を含む一帯が『早良』と呼ばれていることについても『早良』や『 麁( 祖)原』の語源は、朝鮮語の『 ソウル 』から来ているとし、一般にいわれる『 乾渇の地なればサハラグの意ならんか 』(日本紀略)や、早良親王にちなんだものなどとは異なる ー と述べている。

 

 

一方、九州国立博物館館長、九州大学名誉教授であった故田村圓澄氏は、次のように述べている。

 

 

『 伊都国 』と『 奴国 』との間にはさまれた形の『 早良 』は、三世紀の『 魏志倭人伝 』にも名前を現さないが、しかしこの地域が長期にわたり、朝鮮半島とくに弁韓(加羅〈加耶〉) や 辰韓(新羅)と交渉をもつ首長の拠点であったことは疑いをいれない。

 

飯盛遺跡群が所在する旧早良郡の地域は、室見川が貫流する早良平野とほぼ重なる。十世紀に成立した『 和名抄 』は早良郡を七つの郷に分けている。「 早良 」の地名を負う早良郷には、現在の西新町、鳥飼、百道松原が含まれており、また飯盛は金武とともに平群郷に属していた。

 

1274年(文永 十一)に来襲した蒙古軍は、 今津、百治(百道)原、 赤坂の間に上陸し、 別府、鳥飼、麁原、塩屋などで日本側と戦をくりかえした。

 

『蒙古襲来絵詞』に記された地名 は、今も町名として残っている。 青柳種信が『筑前国続風土記 拾遺』で 指摘しているように、「 早良 」の郡名 は「 麁原 」の地名 にもとづいていると思う。

 

「観世音寺 奴婢帳」 によれば、758年(天平宝字 二)に 早良郡額田郷の三家連豊継は観世音寺に奴婢五人を施入しており、すなわち早良郡は八世紀に成立していたことが知られる。

 

ところで「早良」の地名の基となった「麁原」は、「 欷良(そうら) 」 からきたのではないか、と思う。欷良は韓国慶尚南道梁山の旧名である。梁山は金海の北東二十キロ、洛東江の東岸に所在する。『 日本書紀 』には「 草羅 」「 匝羅 」と記されている……。

 

三家連豊継が観世音寺に奴婢を施入したとき、立券文の証人になった早良勝足嶋は、勝姓であり、渡来氏族の秦氏の同族と考えられる。早良勝は擬少領、すなわち早良郡の郡司の家柄であった。仮説であるが、加羅〈加耶〉 の欷良から集団で筑前に渡来し、その定住地が故国の「 欷良 」にちなんで「そはら」と呼ばれたのではないか。

 

「 麁原 」の文字は後になって当てられたと思う。この渡来集団の首領が早良勝氏の祖である。早良勝氏は早良地区の開発者とみるべきであろう。ともあれ欷良 → 麁原 → 早良への地名の推移の背景に、加羅〈加耶〉・新羅文化をもつ早良勝集団の筑紫渡来の事実がうかがえると思う。

 

 

こうなると、『 早良 』がソウルからきたものか、「 麁原=良 」からきたものかわからなくなるが、しかしどちらにせよ、それが古代南部朝鮮からきたものであるということでは同じである。

 

 

長年、「 伊都国 」と「 奴国 」にスポットが当たってきたが、『 早良 』に注目する古代史家も少なくない。

 

そして、『 早良 』にあったという『 早良王国 』。

 

『 早良 』もまた面白い。

 

 

 

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