可也山 (かやさん)と藤崎 / 西海道古代史の迷路

< 糸島市 可也山 >   
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< 福岡タワーから南西を望む >
< 福岡タワーから南西を望む >

 

 

百道浜の職場に通っていた頃、時折、福岡タワーの展望台に昇り、360°の眺望を楽しんだ。

 

南西には、遙か彼方に背振山地を望み、眼下に室見川と藤崎の町を見下ろす。

 

藤崎か …

 

子どもの頃、警察官をしていた叔父が藤崎の官舎に住んでいて、何度か遊びに行った。

 

この” 藤崎 ” の地名、当時、植物の「藤」にちなんだものなのかなどと漠然と思っていた。

 

 

 

 

1995年に発行された『 福岡歴史探訪 早良区編 』ー 「藤崎」の起こりは富士見崎 ー  には、次のとおり記述されている。

 

藤崎は福岡の西の入り口であったが、この地名の起こりは ” 富士見崎( ふじみさき )” で、ここから糸島半島の可也山( かやさん )が遠望できたので、この地名が生まれたという。

 

(中略)

 

往時の藤崎からは、さえぎるものもなく可也山が遠望できた。そこから ” 富士見崎 ” の名がうまれて、それが ” ふみさき ” となまって、後に ” ふじさき ” になったという。

 

 

 

 

 

可也山は、玄界灘に突き出た糸島半島西部に位置し、秀麗な姿を見せる独立峰だ。

 

その山容から筑紫富士(つくしふじ)、糸島富士(いとしまふじ)、小富士(こふじ)などと呼ばれてきた。

 

  

在日朝鮮人小説家・古代史研究家、金 達寿 氏の著書、『 日本の中の朝鮮文化  ―  筑前・筑後・豊前・豊後 』の中に、原田大六 氏(日本の考古学者,伊都歴史資料館(伊都国歴史博物館の前身)名誉館長)とのやりとりが記されている。 

 

 

(原田)

「 あれは糸島富士、筑紫小富士ともいわれている可也山、すなわち古代朝鮮にあった加耶国の加耶山です。

 

(金)

「ほうそうですか。ここにそんな山があったとは知りませんでした。」

「それだけではないですよ」原田さんはつづけた。

 

(原田)

「このあたりは加夜郷だったところで、向こうの西はずれは鶏永(けえ)郷の芥屋(けや)です。そしてこちらは韓舟(からふね)は加布里、加布羅で、どれもみな加耶、加羅です。どうです。おもしろいでしょ。わっはは …」。

 

原田さんはまたつづけた。

 

(原田)

「それから、あそこに立ちならんでいるのは、背振 ( せふり )山地で、その向こうは、早良平野の早良。この背振も早良もみな、朝鮮のソウルからきたものです。どうです、愉快でしょう。わっはは …」。

 

(中略)

 

そして私は、その韓泊が糸島半島北端の北崎で、いまの唐泊であることは知ってい た。しかしながらこの地方全体、伊都国だった前原町や志摩町がそんなにも古代朝鮮 と深い関係にあったところとは知らなかったのである。

 

 

 

 

ちょっと話がそれてしまったが、『 福岡歴史探訪 早良区編 』ー 「 藤崎 」の起こりは富士見崎 ー  には、小見出しが付いている。

 

” 医科大学を断ったら監獄が来た ”

 

明治末期から大正の時代、西新町には、大学、高校、中学校、小学校が隣接して建っていたのだが、明治30年代に、福岡医科大学(九大の前身)が設立されることが決まった時、西新、藤崎あたりの広大な土地も候補に挙がっていたという。

 

ところが当時の西新町町長や町の有力者が相談した結果、「 医科大学なんて建てられると伝染病をばらまかれるようなもので大迷惑する 」というので、大金300円を献金して大学設置を勘弁してもらった。

 

そしたら、代わりに監獄(刑務所)が来てしまった。

 

その刑務所(福岡刑務所)も、昭和40年には糟屋郡宇美町に移転。 

現在、「ももちパレス(福岡県立ももち文化センター)」「早良区役所」「早良警察署」などの官公署が建ち並んでいる辺りだ。

 

面白い話だ。

刑務所もまたいわゆる迷惑施設、今も昔も同じだ。

 

そうした施設が建てられるほど、藤崎近辺は僻地だったのだろう。

 

『 福岡歴史探訪 早良区編 』ー 「藤崎」の起こりは富士見崎 ー  の冒頭、

” 藤崎は福岡の西の入り口であったが … ” にも表れている。

 

実際、かつてお年寄りから聞いた話だが、福博に暮らす人たちから見れば、藤崎あたりは西の辺境、 室見川がその境

 

姪浜など室見川から西の地域に、好感は持たなかったという。

 

  

 

 

姪浜は、江戸時代、「 唐津街道 」の宿場町「 姪浜宿 」と呼ばれ、博多湾に面した港を擁することから、商業や漁業、製塩業なども発展し、「 姪浜千軒 」と呼ばれる賑わいを見せた。

 

その後、1914年(大正3)年に設立された「 姪浜鉱業」により、「 愛宕山 」の北側に「 姪浜炭鉱 」が開かれた。

 

1929(昭和4)年、「 姪浜鉱業 」は西新・小戸などに炭鉱を持つ「 福岡炭鉱 」を買収、「 早良鑛業 」と社名を変更、この鉱山名は「 姪浜炭鉱 」から「 早良炭鉱 本坑 」へ改称。戦前には約20~30万tの出炭があったという。

 

周辺には炭鉱住宅が建ち並び、最盛期の1935(昭和10)年頃には、従業員とその家族8,000人以上が暮らしたという。

 

宿場町、漁師町、炭鉱町としての繁栄は、荒っぽさと猥雑さを併せ持つ。

城下町の福博商人、町人からすれば、時におっかないところであったのだろう。

 

福岡藩の支藩秋月藩の城下町として栄えた旧甘木市の人々が、” 山向こうには、鬼がでる ”  ” 筑豊は、鬼の住むまち ” と言っていたことに似ている。  

 

藤崎にしろ、姪浜にしろ、驚くほど変容し、そうした往時の痕跡は探さなければわからないが …

 

 

今日、福岡県内の自治体では、福岡市の一人勝ち、一極集中だ。

テレビでは、天神や博多の飲食店やショップの紹介が流されない日はない。

 

けれど、古代史好きの観点から言えば、福博はつまらない。 

やはり、早良区、西区、糸島だ。東区もまた面白い。

 

県全体で言えば、当然のことながら、甘木・朝倉、飯塚・田川、豊前も外せない …

 

古代北部九州と朝鮮半島南部との共同と交流の痕跡には、興味が尽きない。

 

 

 

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