ー 想夫恋の源流 / 久留米で考案され日田で花開く ー

 

1997年(平成9年)10月19日(日曜日)読売新聞


 日曜文化 九州ラーメン物語㊵ 原 達郎

 麺料理の故郷・久留米 ”グルメ”の焼きそば考案

 

 

昭和二十年代後半から三十年代にかけてラスクという菓子?が子供たちの人気を呼んだ。パンの切れ端を揚げて、砂糖をまぶしたものだが、安くて量も多く、十円も出せば袋一杯買えたものだった。なかには餡(あん)パンやジャムパンのスライスされたものも混じっていて、餡やジャムの適度な乾き具合が絶妙に美味しかった。このラスクを考案したのは角安親(すみやすちか)という人で、焼きそば[想夫恋]の創業者である。

 

 

彼は久留米市の絣織元老舗で皇室に献上したこともある名門[和泉屋]に生まれたが、両親が早く亡くなったため菓子舗[必勝堂]で菓子職人の修行を積んだ。ラスクを考案したのは、その職人時代のこと。この店では、洋菓子、パンから駄菓子まで何十種類もの製品を作っていたため、粉の性質をとことん知り抜くことができた。そして独立を考えていた角さんは、当時大衆食堂は多いものの専門店が少ないことに着眼し、焼きそば専門店を開くことを決意する。

 

 

姉の嫁ぎ先が大分県日田市だったためそこに移り、日田市内に焼きそば専門店[想夫恋]を開いたのは昭和三十二年のこと。中華麺、モヤシ、肉だけのシンプルな焼きそばなのだが、単純ゆえに難しく、習練を積んだ職人でなければ「焼く」ことはできないという。二代目の弘起さんによると、焼くと炒めるのでは根本的に技術が違い、炒めるならパートの人でもできるが、焼くことは手間と時間とほぐしの熟練した技術が必要だという。

 

 

百聞は一見に如かず。専用に作られた鉄板の上に茹でたての中華麺をのせ、肉とモヤシとともに徹底的に焼かれる様は焼きそばの名前そのもの。両手に持った二本のヘラですくい上げられ麺が宙に踊って仕上げられる妙技は、炒めることとは根本的に違うことを納得させられてしまうのである。

 

 

開店から十年たった昭和四十二年頃から店舗数を増やし、現在では九州一円に三十四店舗を展開。そのうち直営店が三十二店。厳格に味を守るためには、どうしても直営店でなければ難しいのだそうだ。
全国でも珍しい焼きそば専門チェーン店[想夫恋]の焼きそばは久留米で考案され、日田で花開いた。九州ラーメンも久留米生まれ。久留米は麺料理の故郷なのだ。久留米にグルメとカナをふりたい程である。

  ー 以上 -

ー 全ては、軍都 久留米が淵源 ー

 

 

想夫恋の創業者、角 安親 氏が修行を積んだのが、久留米市の菓子舗「必勝堂」である。

 

軍都として発展した久留米市らしい店舗名だ。

 

久留米市は、明治22年(1889)、わが国で初めて市制が施行された31市の中で、人口基準25,000人を250人下回る最も人口が少ない市として出発した。

 

 

明治30年(1897)、現国分町陸上自衛隊駐屯地に第四十八連隊が移駐したのを皮切りに、明治40年(1907)、第十八師団司令部司令部が開庁、歩兵第五十六連隊や工兵第十八大隊などの部隊が相次いで移駐する。

 

これにともない、周辺一帯では兵営や各種軍施設建設のラッシュとなった。

加えて、司令部や市街地、各軍施設と鉄道とを結ぶ道路も新設され、軍都へと急速に進んでいく。

そしてまた、軍都化とともに、商工業の都市へとめざましく変容を遂げていくのである。

 

 

昭和5年(1930)には、日本足袋株式会社のタイヤ部(翌年、ブリッヂストンタイヤ株式会社設立)がタイヤ生産を開始し、ゴム産業の街としても発展していくことになる。

 

九州初のラーメン店「南京千両」の開店は昭和12年(1935)、必勝堂も同じ頃に開業し、軍の部隊にパンなどを納めていたようだ。

 

もともと、筑後川流域に広がる筑後平野は、古くから我が国有数の穀倉地帯である。小麦の生産量で見ると、北海道に次いで福岡県は第二位(平成30年)、この地域には、昔から製粉業社も数多い。

久留米市は、ラーメンはもとよりうどん店も多く、粉モノの街でもある。

 

ちなみに、日中戦争が始まったのが昭和12年7月、日本軍が中華民国の首都南京市を占領したのが同年12月。南京千両も必勝堂もそうしたことを背景に名付けられた店名なのであろう。

 

 

角 安親 氏は、そんな久留米市の必勝堂での修行のなかで、粉の扱いに習熟し、やがて、想夫恋を生み出すことになるのである。

 

                                ー マイケル・K・橘 ー

 

 

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